淡々と


今日、俳優と歌人が
別々の所で
全く同じようなことを
述べられていました。

俳優さんは演技について。
歌人の方は和歌について、です。

その両方を一日のうちに耳にすることに
何か、私にとって意味があるのかなと
襟を正して考えてみました。

「表現において、感情は、出来得る限り抑える」

とても悲しいシーンにおいても、
出来うる限り、感情を抑えた演技をする。

心に触れたことがあったら、
和歌を構成する文字の中に自分の気持ちは書かず
その情景のみを淡々と詠む。

和歌もドラマも、
詠んで終わり、演じて終わりではなく
それを読み、見る人が各々
最終的に作るものかもしれないと思うのです。

見方も読み方も幾通りもあるに違いありません。

それゆえ、感情の多くの部分は
細やかなところ程鑑賞する側がそれを想像し
自分の経験などを加えつつ
想像の中で完成させるものなのかもしれません。

伝統芸能の能は
面のほんの少しの角度で
感情を表現するわけで、
その最たるものではないでしょうか。

他者の感情は、
嬉しいときはまだしも
負の感情は
受け止めるには重過ぎることがあります。

その証拠に、
真剣に友人の相談話を聞くと
それなりに疲れます。
大事な友人であればあるほど
相手の立場になりきって聞き、
友人の気持ちに添えば添う程
相手の気持ちが自分に流れ込んできて、
追体験するからです。

芸能に於ける感情表現も
それと同じことで、
芝居や文章表現が過剰であれば
どこかおなか一杯になってしまいます。


では、花は。
花はどうでしょう?

なげいれの花は
「こちらが好き」と
好む方へ倒します。

しかしながら
倒し過ぎると
過剰な演技のように、うるさい。

余程覚悟を決めて
ばっさり倒していれば、
それはそれでまた別のお話が始まります。

けれど通常は
その草木生来の姿を見定めて、
まっすぐな状態でいれて、
それを僅かに自分の好きな方に倒すぐらいだと
鑑賞者に感情の押し付けをせずに済みます。
心穏やかに見られる花になります。

淡々と表れた世界には
人の想像力は膨らみやすく
思いも乗せやすいと思いました。


20160604.jpg


花: 破れ傘 燕尾仙翁 赤花紫陽花 下野 紅茅 糸薄
器: 唐物写 耳付籠花入


器選びを失敗しました…
花に対して首が細く、長すぎる籠でした。
とほほ



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