「好き」の理由 その3


草木を神の憑代と見做すならば、
その花や枝の神々しさを
少しでもより良く生かすことにのみ執心し、
「こんなふうにいれてみたい」という
思い付きのような「我」は
出来うる限り排除せねばなりません。

そして、一旦花を手に取ったら
こねくりまわさずに
さっと入れなくてはなりません。

自然の中にあったままのような
清らかな風情が
何よりものご馳走なのに、
手に取って握り込んだまま
あれこれ考えたり、
長さ一つ決め切れなくて
ちょっとずつ切り刻んでみたり、
留められないが故に
何度も入れなおしていると、
人の思惑や手跡が
色濃く付いて廻り、
清浄な空気感が消えてしまうからです。

人の眼は本当に不思議で
実在していない何かを見取ります。

この感覚に近いのは
茶花かな、と思います。

茶花は、
その花が、器が、
茶の道の精神の表れであるからこそ
一輪の花が尊いのだと思います。
亭主のお人柄そのものでもあると言えます。

だからこそ、
ただ珍しい山野草を一輪だけ入れれば仕上がる、
なんて事ではないと思うのです。

その花に何を投じ、
何を託し、
何を見ているかが肝要で、
その結果
澱まず、
清らかな空気感をのみ表せたのならば、
茶花は(特に小間のものは)
名花や
珍しい山野草に
頼る必要はないのだと思います。

茶花という形式や
決まりごとに
左右されるよりもまずは、
好きだな、と心を寄せられる花で
茶の精神に則っていることが
肝要なのではないでしょうか。

こんなことを
つらつらと考え詰めていると、
「好き」どころの話では収まらなくなってきます。


20160514.jpg



花: ぜんまい 諸葛菜 たねつけばな
器: 竹寸胴切 


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2 Comments

ヨリックです  

書かれている事

一つ一つ心に思い当たるのです。
ワタクシなんぞいつも指の方が先走ってしまって、後で恥じ入るばかり。
これからもいろいろ教えて下さい。
出来の悪いやっかいな弟子を持ったつもりで、上手にお叱り下されば反省も出来るかも、と思います。どうぞよろしくお願いいたします。

2016/05/15 (Sun) 20:37 | EDIT | REPLY |   

えるて  

ヨリックさんへ

いえいえ、
わたくしとて
頭で理解していることと
実際の動作や心の動きが
必ずしも一致していないので、
トホホな事も多々あるのです。
(>_<)

自分の持ち場で
逃げずに直視するしか方法はなく、
抜け道ってないなぁと思ったりします。


2016/05/16 (Mon) 09:44 | EDIT | REPLY |   

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