なげいれの花 考察 その2 成功と失敗の分かれ道③


普段なげいれの花を見慣れていると、
剣山やオアシスなどで
花留めをしていけてある花は
(それが見えない部分であるとしても)
ぎゅっと硬く、窮屈に感じます。

少し考えてみれば、当たり前のことなのです。

物理的に
自然に留まらない物を
剣山に刺し、オアシスに刺すことで、
がっちり固定して
自然の理に逆らっているのですから。

なげいれの花は
基本そのような方法を使わないので、
その花留めの方法がミニマムであればある程
軽やかに、自然に見えます。
器の形状上
剣山を使わざるを得ない場合も、
突き立てるというよりは
針と針の間にそっとはさむように留めることが殆どです。
つまり、人の作為が(ないわけではないけれど)
花が身動き取れない程
留めきることはないので、
それが見る人に伝わります。

それゆえ花留め方法には試行錯誤致し、
臨機応変に千変万化します。

技術の不足で花が留まらなかったり、
そのためにいけるということ自体に必死になって
周りが見えなくなって
結果失敗してしまうこともあるので、
エゴイズムがだけが
上手く行かない原因ではありません。

しかしそれもこれも、
一本の花、一本の草への「敬意」が
その人の心の中にあるかどうか。

手折った花の「命」を軽んじていないか。

大げさに聞こえるかもしれませんが、
それに尽きると思います。

手折ったからには、
その花の命は奪われます。
殺人ならぬ殺花、殺草です。
どんなに大事に花養いをしたところで、
挿し木などは別として
花にそれ以降の繁殖は望めません。
命の持ち時間を
人の手で短縮しています。

その傲慢さを、ここで問いたいとは思いません。
人は、
動物や植物などの
他の命を奪って食さなければ
生きていくことができない原罪を抱えているからです。

ただ、手折ったからには
無駄死にさせたくはありません。
いかしたい。

丁寧に花養いして水を揚げ、
その花の美しさを
自然に咲いていた時以上に引き出す器を合わせ、
なるべく負荷をかけない花留め方法で
成仏させたいのです。

病床にある作家が
命を削ってでも
作品を仕上げたいと熱望するように、
人も植物も
ただ与えられた天命を全うすることだけが
最上の死だとは言い切れないと思うのです。
切らなければ、
その瞬間を留めなければ、
浮かび上がることのない
生命の賛美もあります。

エゴを抑えることは、
言い換えれば
自分以外の生命をも尊重するということであり、
一つ一つの草木を
唯一無二のかけがえのないものとする
敬意がこそが
心の内にあることに始まるのではないでしょうか。

その敬意と
自然の草花の
出会うところが
美しさの在り処のように思えてなりません。


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花: たんぽぽ 田平子 母子草
器: 浅田尚道作


続きます

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