ある人への手紙

こんにちわ

まだまだ寒い日が続いています。
お加減いかがですか?
私も風邪をひく寸前で、
なんとか踏ん張るべく
身体中にホッカイロを貼っています。

じつは先日頂いたメールを拝読して
花を入れる際に
「手」が早く動かせるという事は
どういう事なのかなぁと
つらつらと考えていました。

手が遅い、ということは
動作が遅いという事なのか。
いけないことなのか。
では、手が速いということは、
動作が速い、という事なのか。
悪いことなのか。

なんか… それは違うかも、と思いました。

グズグズよりは
ささっと素早い方が
良いには違いないでしょうが、
もう10年も前のことですが
花を入れるのがとてもお上手な方が
大輪の白い牡丹を2輪
李朝の白磁の壺に入れていらっしゃるのを
拝見していた時の事を思い出したのです。

ころんとした壺で
大きな花二輪を
花留めも無しに刺すだけですから
そう手間取る物でもないのですが、
随分ゆっくり、何度も何度も直しながら
お入れになってました。

それを見ていて
私達の先生は
「自分は彼女みたいに優しい人間ではないから
こういう花は入れられない」
と仰いました。

その時の光景がとても印象的だったので
覚えているのだと思うのですが、
この二輪のベストポジションは
あとわずかに右、とか
左、とか
納得出来るまで調整している分には
ゆっくりでもいいのだ、という
例だと思うのです。

要は、どの花を
どんなふうに入れるのか
はっきりとした世界観やビジョンが
定まらないまま、
なんとなくあの花この花と
手にとっては変える事を
「手が遅い」と言われたり
「取っ替え引っ替え」とか
「好きな世界がない」
と評されるのではないでしょうか。

貴女は
ほわっと優しい雰囲気が
他者に安心感を与える方だと
僭越ながら感じております。

そのお人柄そのままに、
採取の際に
「好き」が定まるまで切らないのが
もしかすると功を成す秘訣かもしれません。

切るたびに、
ホントに好きかを自分に問うのは
結構面倒なことではありますが、
「好き!」が
一つでも見つかったら、
それに沿う物を探して、切る。

ある程度集まったら
どんな世界観をあらわそうか
どの器がそれに合いそうか、想像する。
そうすれば
あれこれ迷うことは減るので
必然的に手は早くなります。

同時に、
手が早くなるには
上記のような思索と共に
その草木を
「花器に理想的な姿に留める」ための
花留めの技術が不可欠です。

草木自体を溜めたり、折ったり、切ったり。
器の方に十文字や何かの花留めを仕組んだり。

これらは力学とか物理とかと直結していて、
花留めを体得することは
万物の真理に繋がるのではないか、などと
私は壮大な想像してしまうのですが、
あながち間違っているとも思えません。

それをいちいち考えなくても
身体に染み入ってすっと繰り出せるようになることが、
まさに私達の各々が
自習で体得するよう求められている
ある種の修練なのだと思います。

全部を自分で考えるのはしんどいので、
先生の手元を見て
「なるほど、あんな風にしたら留るんだ!」と拝見して理解出来れば
ちょっと楽になります。

とはいいつつも、
花留めや
自分の世界観が前に出すぎてしまうと
詩情は消えてしまいます。
同時に
どんなふうにも留めることの出来る人の
「花留めを使いたくない」と
留めることの出来ない人の
「花留めを出来ない」が
まったく違うのは当然の理で、
1つには花に無理をさせなくても自然と留まる相性の器を選んだり、
無理をしなくても留まるような
花を選んでいたり、というのも
選択の内に入れるのも
一つの手なのだと思います。

先日差し上げたメールと
重なる部分も多々あるかと思います。
一人でボーっと考えたことを
共有したくなったので
差し出がましくまた
ご連絡差し上げました。

来月また
お目にかかるのを楽しみにしております。
寒中、ご自愛下さいませ。



20190202.jpeg

花: 椴松 木蓮 柳蘭
器: 中西洋人 公孫樹 破れ壷

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