考えなければならない理由


先日、知人との会話の中で
お茶の稽古の話になりました。

「私達のお茶の先生はね、
何を伺っても開口一番に
ご自分でお考えなさいって言われるの」

「これで正しいでしょうか?って
想像して申し上げると、
そう、かもしれません…
ってお答えになるの。
なぞなぞみたいでしょう?」

結局は自分で調べたりして
後で答え合わせをするらしいのですが、
クスクスと笑って説明して下さって
とても楽しそうなご様子です。

茶の湯にしろ花道にしろ古典芸能にしろ
通常「稽古」と呼ばれるものは
型や作法や手前の順番の習得が
主となるわけですが、
流派においての学びの終着点は
全てを間違いなく記憶し
理想の形を美しく再現できることなのだろうなぁ、と思います。

教えてもらうだけでは
図書館のインデックスを増やすようなもので、
延々と枚数を増やして
知識の数を増やす以外になく、
根本を太らせ
一を知って十を悟るかのような
汎用的な広がりを持つことはありません。

その彼女達の先生が
答えを仰らない訳は、
型なら型の、手順なら手順の
「なぜそうせねばならないのか」という理由が
自分の考え方そのものとして
身の内に不文律として存在する状態にまで
なることを目標としていらっしゃるからではないかと思うのです。
人から与えられた知識と、
自分で考えたことの違いは大きいからです。

自ずからそこに至っていれば、
動けば自然と
流派の求める型の姿にまでなるのではないかと思います。

まずは「自分で考え」
次に「なぜその考えでは駄目なのか」を
指摘される事での繰り返しでしか
自分自身がその域に達する事は出来ません。
流派においての
個人の個性などというものは、
それらを礎にして立ち上がってくるものだろうと思います。

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花: 梅苔木 綿 水栓
器: 古瀬戸灰釉瓶子(平安時代)

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