ハロウィンとアイヒマン


渋谷の週末のプレハロウィンで
ふざけて軽トラックをひっくり返した報道を見て
やりきれない気持ちがわいてきました。

ハロウィンの「祭」は本来は「祀る」からきていますが、
宗教心や思想や哲学がないと
只の大騒ぎに成り果てて、
たとえば国会前のシュプレヒコールの群衆しにても
群衆に不穏を感じます。

ただ、そこから
ハンナ・アーレントを連想する私は、
ちょっと素っ頓狂かもしれません。

ハンナ・アーレントは
ドイツ出身の哲学者で、ユダヤ人です。
ヒトラーの片腕でホロコーストの立役者であったアイヒマンが
逃亡先の南米で捕まった後、
その裁判を傍聴し
彼を観察し続けた彼女は
アイヒマンが「普通の平凡な人」だったがために
ユダヤ人大量虐殺に加担した、という結果を導きます。

つまり彼は「特殊な極悪人」ではなく、
どこにでもいる
無思想でありふれた凡人の小役人で、
凡庸であるからこそ犯罪を犯したと
結論付けたのです。
アイヒマンを犯罪者にさせたのは
ナチズムでした。

アーレントは様々な調査をした結果、
大量殺戮を可能にしたのは
ナチスの支配者側だけに留まらず
少なくない同胞、つまりユダヤ人の協力があったからだ
という事実も見出しました。

このアーレントの論は、
いわば「誰もが世界中に名を轟かせる犯罪者になりうる」ということに外ならず、
世論の反発は
それはそれは凄かったそうです。

つまり多くの人にとって
「犯罪を犯すような者は滅多にいない」と思う方が
単純で簡単でラクチンなのです。
自分の大切な人が、
穏やかな隣人が、
仲良しの友達が、
そして自分までもが
犯罪者になる可能性を含むのは困るのです。
被害者が加害者でもあり得るというような
複雑な状態も
難しくて困るのです。
我が身を蚊帳の外に置いて
怒りを、批判を
一定方向に向かって吐き出すことが出来ないのは
きっと困るのです。

思想や哲学を身の内に持つ、ということは
言い返せば
自分自身の内面を深く掘り下げてみつめることから始まり、
そこで対峙した自分の弱さや脆さ、危うさまでも認め、
そのような自分を受け入れることが
前提にあるのでしょう。
そしてそれは
絶望や非常な苦痛を伴うこともしばしばなので、
自己追及をする必要もない多くの人には
難しいのだと思います。

凡庸とは、
良いも悪いもなく
そのような状態を指すのではないでしょうか。

アーレントの書いた本を元に
スタンフォード大では
1971年に有名な心理学の実験を行いました。
「スタンフォード監獄実験」です。

生徒を囚人と監獄の役人に振り分け
役割分担をして監獄を演じたその結果は、
予想をはるかに上回る
凄惨な状態と精神状態を
演者の生徒たちにもたらし、
実験を予定よりも早く辞めざるを得ない程でした。
看守役が加虐さを増し禁止されていた暴力を開始し、
囚人役に錯乱者が出る至り
批判が集まり始めてもなお、
監修していた教授さえ
そのリアリティに飲み込まれ
実験を辞めないと主張した狂気が
暗い雲のように覆い始めた事を
見逃してはならないと思います。
実験開始から中止まで、
わずか6日でした。

つまり悪は、
そのような悪意のない
作りこんだ偽物の環境でさえも
簡単に生じます。
潮流が御膳立てられればなおさらです。
それも人が群れた時、
その確率は跳ね上がります。
一人でいれば絶対にしないだろう事も
群れることで
熱に浮かされてやってしまいます。
冷静に多様性を考える余裕はなくなり、
群衆が徒党を組み、
煽られたようになれば
他人の軽トラックをひっくり返して
その上に乗って踊ってしまうのです。

この行為は
ハロウィンのお祭りの
若気の至り故の度の過ぎた悪ふざけのように報道されていますが、
私には
人類の根底に横たわる集団心理的粗暴さの
アイヒマンへと続くとば口そのものに思えます。

同時に、
毎日のように報道される犯罪の
犯罪者のことを
他人事のようには思えません。
我慢の果ての何かのはずみに、
ふと沸き起こってきた小狡さゆえに、
辛い環境の果てに、
ちょっとしたことが何かの犯罪に繋がらないとは
私自身言い切れないからです。

普段は無意識で過ごしていますが、
花を切ることは殺人ならぬ殺花ですし、
何かを食べることも、着ることも、住まうことも
家畜や野菜の命を奪い
綿や麻を切り木を伐りして
いろんな犠牲の元に成り立っています。
奪うことが犯罪ならば、
私達は一人残らず犯罪者です。

レ・ミゼラブルのジャンバルジャンは
飢えに泣く姉の子供を救おうとパンを一つ盗んだために
19年間も投獄され、
社会に対して激しい憎悪を抱くに至ります。
けれど慈愛そのものの司教と触れ合うことで
眠っていた良心が目覚めます。

私達はあの司祭のようには
なかなかなれるものではないけれど、
それでも小さな優しさや慈愛が
何かを防ぐ元になるには違いない、
などなど
つらつら考えながら花を入れる
秋の一日です。

20180925

花: 山独活 山白菊 薊 深山唐松 薄
器: 常滑 経塚壺 (平安時代)



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4 Comments

かめさんランナー  

いつも興味深く読ませていただいてます。
今日のご意見は全く同感です。

2018/10/31 (Wed) 21:13 | EDIT | REPLY |   

えるて  

かめさんランナー  さま

いつもありがとうございます。

自己責任という言葉は
自分だけでなく
実は他人にまで及ぶことなのだな、と
ずずんと重く響きます。

2018/10/31 (Wed) 22:40 | EDIT | REPLY |   

くわがたお  

えるてさん、こんばんは!!^^

>自分の大切な人が、
>穏やかな隣人が、
>仲良しの友達が、
>そして自分までもが
>犯罪者になる可能性を含むのは困るのです。
ぶっちゃけると?、自分の大切な人と自分が犯罪者になるのは困る、と思いました。

隣家は歯医者とグループホームだし、妻のように裏のアパートの入れ替わる人たちと会話を交わしたことが無いし、友達がいないし。――;

私の子どもたちは、でも、犯罪者になるかもしれないと、少し心配しています。(深刻にでは無いにしてもです。)でも、私は彼らが死ぬまではきっと見届けられないです。

私だって、ぼーと運転していますが時々は、事故ったら、しゃれにならないとか思ったりします。

犯罪なら多分、刑法上のことにすぎないという認識ですが、悪?なら、、怖いなあ、と自分の事ながら?妄想しました。m(__;m

2018/11/02 (Fri) 01:40 | EDIT | REPLY |   

えるて  

くわがたお さま

こんにちわ はじめまして

> ぶっちゃけると?、自分の大切な人と自分が犯罪者になるのは困る、と思いました。

そうですよね。
そうだとすると、
まずは何が出来るでしょうね。

高橋留美子さんのコミックに
「事件の現場」という短編があるのですが、
日常と事件の接点を
とても上手に書いていらっしゃいます。

事件は特殊な極悪人が起こすばかりではなくて、
自分が楽をするために
人の悲しさや苦しさを
見て見ぬふりをした結果
その延長戦に起こることもありうるのだなぁ、と
気付かされます。
おすすめです。

2018/11/04 (Sun) 00:32 | EDIT | REPLY |   

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