やなぎ その2


自然に生えている柳は自由奔放です。
その様子は
美しい人の寝起きにも似ているなと思うのです。

目が覚めたら
顔を洗い
髪を梳るように、
柳は大抵の場合は
余分な枝を落とし
コシ(弾力のある美しいしなり)を付けることで
理想的な美しい姿に変貌します。

眉墨を薄く引いて眉に綺麗な弧があることを目立たせるように
柳をしならせ「コシを付ける」のです。
これはしだれ柳に限ったことで、
立ち姿のねこやなぎ等の系統では
(ためやすくはあるものの)
そんなに意識することがありません。

そんなふうなので、
しだれ柳を目にすると
無意識のうちに
どこを切り、どこにコシをつけるか
思いが巡っているのだと思います。


先日、憧れの天龍寺青磁を使わせていた際、
柳はなるべくそのまま使うように、と教えを受けました。
柳にコシを付けるのは江戸時代からなので、
この器の伝来した時代には
まだそのような手法は使わなかったから、とのことでした。

はっとしたのです。

仏像だって、焼き物だって、漢字だって、
心と形の近い素朴な形から始まり
何十年何百年と時を経て
心を昇華させたような洗練の形の極みを見届けた後、
それに飽き足らなくなった人間は
何かを置き去りにして
技巧に走らざるを得ません。

「コシ」をつけるということは
手を加えるということです。
ある種の技巧です。

手を加えられないとなると
枝はいつも以上に選ばねばなりません。
選びはしても
コシのつかない姿はある種凡庸です。

平凡で凡庸だけれど、
恰好を付けることなく
まっすぐに入った柳の姿に
器が伝来したであろう室町時代の
気風のようなものを感じたようにおもえて
背筋が伸びました。 

どんなに芸術的で創造的であろうとも
技巧を尽くし
それが「作品」などと呼ばれるに至っては
花は「材料」として扱われます。
そうなると既に
「花」は
大切な何かを失なっているように思えて仕方ないのです。

それは、ある角度から見た時に
造形だけが独り歩きして
一番大事な何かを置き去りにしてしまっているかのように見えるような、
そんな不安に通じます。

自然にあるままの状態そのものは、
神様のようなものです。
そこにほんの少し人が寄り添うように
花を摘み、器に入れる。
最低限の留める技術は必要だけれど
技巧が過ぎては元も子もありません。

そういうことを感じる力が
とても大切なものに思えた
「コシ」をつけない柳の経験でした。



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花: 楊二種 藪椿
器: 破れ籠
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