籠の花入


籠に花を入れようと手に取った際、
茶席において
「籠の花入れは風炉の季節、つまり初夏から秋に用いるもの」という風潮になったのは、
近代に入ってから…ということを
ふと思い出しました。
明治の初め頃だとしても、
まだ100数十年前のことです。

ただし唐物籠という種類のカゴは上記の範疇ではありません。
この籠は、室町から江戸初期に招来された
主に中国の明の時代の物ですが、
炉の季節も使用が出来るとされている理由を鑑みるに
格調高さは勿論の事
精緻に編み込まれて
色も限りなく黒に近い濃色ゆえに、
透かし編みの白竹のような透け感から来る
寒々しさがないからだろうと思っています。

元来カゴが好きなので
気を抜くとゴミ箱から手提げまでと
わらわら増えてしまう方ですが、
唐物籠に花を入れさせて頂く時の嬉しさは
その品の持つポテンシャルの高さ故か
普段遣いのカゴの楽しみとは別次元で、
喉の奥が音を出さずに笑っているかと思うような
ワクワクとした高揚感が湧いて来ます。
さすが物の持つパワーが強いと違うなぁと
いつも思います。


籠を花入れに始めて用いたのは
足利義政だったとの文章が残っていますが、
茶の湯において
茶席の花入れに籠を用いた記述が
はじめてあらわれるのは
「天王寺屋会記」で、
天文18年(1549)正月9日の茶会に
「なたのさや」とあるのがそれだとされています。
天文18年を年表で見ると、
信長が濃姫を娶り
ザビエルが来日し、
まだ若い家康が今川の人質になった年です。
利休は若干20代後半です。

その年の旧暦正月九日ということは
つまり厳冬期で、
籠は、冬本番の時分に使われたことになります。

ではそれがどんな籠だったかを想像するに、
「ナタノサヤ」と名前が付いていることから
小枝を払うためのナタを
腰に下げるための入れ物として編まれている籠で、
サヤとは、豆や日本刀を包んでいる
細長い袋状の物を指す言葉です。
大きさも、大きな出刃包丁ぐらいで
刃は、包丁よりちょっと分厚いでしようか。
そのような物が入っているとすると、
さやの厚みも数センチと薄いので
自立させることが困難ですから、
壁に掛ける掛花入れに用いられたのでしょう。

アケビの蔓で編んだものではシナリが硬めで体に沿いにくく
網目はスカスカしますし、
藤でも似たようなものです。
竹だとやはり材が固めですから
相当細く割いて細かく編まねばならず、
野良の作業用の物としてはちょっと手間が見合わないので
野葡萄の強い蔓で作られたかなぁと想像しますが、
柿渋や漆で
蔓を補強してあったかもしれません。
だとすると濃色で、
網目も隙間がほとんどないように
キチッと編んである物だと思われます。

つまり、見た目が寒々しくないと思うのです。


また、別のお話ですが
赤穂浪士が討ち入りに入った日は
吉良邸で茶会が行われていたそうです。
その茶会があるので、
上野介が在宅していることが
あらかじめわかっていたのです。

本懐を遂げ、吉良上野介の首を打ち取った浪士達は
その首を浅野家の墓前まで
槍の上に括り付けて行った…のではありませんでした。
吉良家からの奪還を恐れて、
茶席に花をいれてあった
桂籠という籠の花入れを
上野介の頭の代わりに布に包んで
槍に括り付けて練り歩き、
本物の首は、
人目を忍んで
舟で墓前まで運ばれたそうです。
これが旧暦12月14日のことで、
つまり冬の最中に
籠花入れが茶会で用いられていたということの証でもあります。

桂籠も編目が密で濃色、
やはり寒々しさがありません。

昔は現代よりもずっと
籠が生活の中に
自然にあったのだと思います。
冬だろうと夏だろうと、
お米の水切りにざるは使われたでしょうし、
野菜を収穫しても籠に入れたでしょう。
なので冬は籠を用いないという感覚は
薄かったのかもしれません。
とはいえども、
冬に見た目に寒々しいのは如何なものかな、とも思います。


先程手に取った網目の密で細かい濃色の籠に
花を入れてみました。

そしてそのまま花を掴み、
別の壺に放ってみました。

どちらの方が
今の季節の気分に
しっくりと来るかなぁと、
見比べている次第です。


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花: 蔓梅擬 姥百合の末枯れ 菊 秋海棠
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