空の鳥を見よ

空の鳥を見よ。

播かず、刈らず、倉に収めず、
然るに汝らの天の父はこれを養ひたまふ。
いわんや、汝らにおいてをや。

  イエス・キリスト「山上の垂訓」  
  新約聖書マタイ伝福音書 第6章



私には存在価値なんてないんじゃないかしら、と
沈んでいた時、
かつて友人が
この聖書の一説を送ってくれました。

人はそんなに強くはないので、
自分が何かの役に立っている事や
他者に好かれている事、
また、才能なり財なり人脈なりを
自信の「よすが」にしがちです。

そして
そういうことを自信の源にしている人は、
何に頼らずとも
自己肯定感を身に備えた人に
ちょっと羨ましさを感じたりします。

しかしながら、
どんな人であろうと
この世に産まれ生きてゆくのに
条件など何一つないと説く
このキリスト教の考え方には、
無宗教者の私すら
うたれる思いが致します。

北欧諸国に1960年代におこった
「ノーマライゼーション」という理念は
個人個人の違いを吸収して全体を均一化する、
つまりなんらかの
体なり、知能なり、高齢化なりで
差し障りを持つ人と持たない人とが
平等に生活する社会の実現が目標だそうで、
たとえばスウェーデンでは、
カフェの店内に
ストレッチャーに横たわった障害者の方がいたりする、と聞きました。
ただそこにいることが、
その方のその日のお仕事だそうです。
むろん、お店の動的サービスに寄与できるわけではなく、
その姿を店の中に置き、
お客様や店員と時折お話をするだけだそうで、
それをその人の仕事として
当然のように、本人も周囲の人も受け止められる程
その理念が浸透しているのだとか。
ちょっと驚きました。
けれど、マタイ伝の上記の一説を思い出すと
スウェーデンの人達の共通認識に存在している
地下水の流れのような良識があるに違いなく、
日本とはいろんな意味で遠い国だなぁと、
感じたことでした。


歎異抄第三章において、
親鸞聖人は
「善人なおもて往生を遂げぐ、いわんや悪人をや」
と仰っています。

ここでいう悪人とは、
法的な犯罪者や非人格者のことではありません。
自分で深く内省し
良い方向に向かおうと
努力をしても
泥沼から這い上がれず打ちひしがれている人のことで、
そのような苦悩の人こそが
救うべき対象、つまり
弥陀の本願の正客であるということだそうです。


私には、上記のマタイ伝の一説と
この悪人正機説の根底に流れるものが
とても近しく感じられ、
私たちへのエールのように思えるのです。

宗教を持つ人は神や仏の元で生きてゆけますが、
無神論者はある種の哲学の元で生きていかねばなりません。

「何かに頼ることなく
自分だけでしっかり立って何にも依存するな」と指示したところで、
何かに頼らないと伸びてゆけないように生まれついている
たとえば「朝顔」や「へちま」のような蔓性の植物には
杉や桜のように
幼木の頃からすっくと独りで立つ一生を歩むのは
到底無理な話だからです。

ただ、巻き付くものが頼りなかったり腐っていると
朝顔が育つにつれ
その重さで共倒れになってしまうかもしれません。
巻き付く相手を間違えると、
大変なことになります。


花を入れながら
それって植物の話だけではないのでは…などと
はっと気が付くことがあるので
哲学の入り口は本だけではなくて
花も繋がっているなぁと思うこの頃です。

20171005.jpg


花: 松 葛 藤の実 山芍薬の実 白嫁菜
器: 初代竹房斎 花籠



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