物にまつわる人の気配


友人が
「わたし、物に精神性が宿っているとかって、
 鬱陶しくって嫌なのよね」と言います。

仏教美術などの骨董品のことかと思い、
もう少し詳しく聞いてみました。

「上質な器とか美味しい料理って
 作った人の気持ちみたいなものが付いて回っているようで、
 そういうのが鬱陶しくて苦手。
 工業製品で大量生産品の方が馴染むわ。」

なんと。
ある意味私と意見が真逆です。
けれど彼女は
低質な物が良いと言っているわけではありません。

ふと閃いたのですが、
真逆のように見える意見の違いも
もしかすると物事の表と裏を示しているのかもしれません。
というのも私は
移ろい易い人の心に
重きを置いていないところがあるのです。

音楽であろうと料理であろうと洋服であろうと
たとえ花をいれることにしたところで 、
作った人の「魂のありさま」は
それが投影された「物」が
作者の手を離れれば
ある意味不変で、
生身の人間のやわらかさに左右されません。

つまり「物のありさま」は、いわば
「魂」や「探求心」のありさまであって 、
他人様の評価には
全く関与しないで成立しています。

昔、日本画壇では
「絵もお人柄も一流となると、
小林古径か、奥村土牛か、はたまた…」
などと言う向きがあったそうです。

芸術家に限ったことではありませんが
私は、何か一生懸命打ち込んでいる人に
柔らかな人あたりなど求める方が
土台間違っているのではないかと思うのです。

もちろん
無愛想が良いと思っているわけではありません。
穏やかで明るくて
謙虚で思いやりのある健康な精神の人を
好ましく思います。

では何が言いたいのかというと
人って、そんなに簡単にはわからないのではないか、と。

自分の目線まで降りてきて
寄り添ってやさしい言葉で接してくれない人の対応に傷付くことは、
正直あります。
そういう人のことを「毒舌家」と評すのを
耳にすることも あります。
だからと言って人柄が悪いと
簡単には言えないとも思うのです。

立場を変えて想像するに、
孤高に高い峰に挑んでいる人は
自分の来た道を知っているけれども、
いまだ遥か眼下にいる者からは
その登ったこともない道の険しさや
距離感を測ることは 難しいということに尽きると思います。

位置の違いをおもんばかる能力がない限り、
元来話が反り合うわけがありません。

同じことを何度も聞かれようと、
とんちんかんなことを聞かれようと 、
にこにこと穏やかに応対出来る
ある種の鈍さを
高い志と併せ持つ方もいらっしゃるでしょうが、
様子を拝見していて
本当に大変だと感じたこともあるのです。

むしろ、諸々にうんざりした頃に
「あの人は気難しい」と言われるような言葉を
発してしまうことは想像に易く、
その結果、保身の在り方として
万人に優しくなさる方もいらっしゃるでしょう。

いずれにせよ
何か物を為す人であるならば、
物の姿を見れば
どのような心持でそれに相対して来たか
一目瞭然ではないか、と思うのです。
物には人の気配がまつわるからです。

なんらかのトラウマを負った時、
負の力が反作用を起こして
才能が昇華する方もおいでで、
芸術家で言えば、
ユトリロや魯山人などが良い例です。

魯山人などはお人柄は最低で、
葬式の列席者はごくわずかだったと
どこかで読みました。

しかし物が作った人の手を離れ、
作った人も亡くなり 、
その「物」が一人歩きを始めた頃、
物に現れる精神性や作り手の才は
人の評価によってぶれることがなくなります。

作った人が不器用で悪舌であろうと、
皮をむいて、むいて、
その人の芯の芯の内側に潜んでいた
純度の高い何かが
物に投影されている。
そしてそれが骨董などといわれるようになると
それを愛蔵してきた人達の
愛情を注がれた雰囲気まで身にまとう。
そういうのが「良い気配をまとっている」と言うのかなぁと思います。

言い換えれば
「良い波長」のようなものかもしれません。



20171025.jpg


花: 紅葉 末枯れ松 嫁菜
器: 古銅尊式瓶(江戸期)


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