花器のこと


器は、
草木花がまとう衣装であり、
草木花が座する家でもあり、
草木花が育まれた大地の代わりでもあります。

それゆえ
「植物本位」に考えると、
草花にどのような器を添わせるかは一大事で、
草木の生まれと育ちをおもんばからずに
器に入れることは、
すなわち
草木の個性を殺すことに繋がります。

一本の素朴な雑草であろうとも、
その花に添い、生かす器があります。


逆に「器本位」に考えると、
その器の持つ世界観を脇において
花をいれるわけにはゆきません。

たとえば菊の花をいけると仮定すると、
元々は魚籠だった野趣あふれるカゴに
野菊は映えるかもしれませんが、
真っ白なぽってりとした
王朝風の菊は
お里が違い過ぎて、似合わないのです。

宗教儀式や供花のために使用された器には
祈りの精神が宿りますし、
茶の湯で好まれる器には
茶の心が反映されます。
器の性質をしっかりと受け止めねばなりません。

とは言っても、
同級生の気さくで可愛らしいカップルが
しきたりも家格もずっしりと重みのある家に
取子取嫁で生涯暮らしてゆかねばならないかのような
難儀な取り合わせが
花と器の関係においても
場合によってはあります。

それは間違いではないものの、
器や花の「生得」を踏まえた上での事でないと
見ていてハラハラするような要素を内包することとなります。


「花を入れる人本位」に考えてみると、
器と花の取り合わせはその人次第です。
繰り広げたいと思う世界を構築するために
花を先に選ぶか、
器を先に選ぶか、
その時の状況次第です。

好きな器なら
その器を引き立てるような花を入れたいと思うでしょうし
好きな花ならば
その花にそぐった器に入れたいと思うでしょう。
花をいれることが好きならば
気持ちよく入れたでしょうから、
その入れ手の気分の良さが
他人の目に映った時、
気分が良い花だな、
上手だな、と思われる事もあると思うのです。

それゆえ花を入れる人にとって、
まずは花も器も「好き」な物であることが肝要なのです。


いわゆる雑器と呼ばれるような
農具の籠や鉄や木、
ガラスや陶器の見立てのうつわは、
名前の示す通り
なんでも気軽に受け入れてくれます。
たっぷりと沢山の秋の花でも
ぐにゃりと曲がったエキセントリックな枝でも
おおらかに入れられるので、
手元においてあると何かと便利です。

しかし、良い器と呼ばれるような
格の高い器となると
ただ「好き」では済まなくて
花を入れる人がどんな世界観を描き出したいか
明確にせねば立ちゆきません。

言いたいことや見所を
集約させたような花が入らねば、
それを見ている人が
肩透かしを喰ったような気分になってしまうのです。
それは、本当は
雑器も同じことなのですが、
求められる度合いが違うのです。

大壷の中にたっぷりと入れた花の中から
どうしてもこの一本が好きだ、見せたい!
と思うような草花を取り出すのが得策です。
もしくは、そのような素材を選ぶことから始まります。

良い器を扱うには
それらのような気概が必要とされるので、
もっと気楽にざっくり入れるのが好きだわと
お思いになる方の方が
圧倒的に多いとも思います。
そういう場合は
そのような感覚に相応しいうつわを使われればよいのです。

いわゆる良い器を愛して
手にしてしまった人は、
器に見合った花を入れる努力をするしかありません。

どちらを選ぶのも間違いではなく、
お好みの問題で、自由なのですが
間違うと苦労することになります。

そして
良い器を買うということは、
買い物は、
ひいてはお金を出すということは、
「覚悟の現れ」そのものです。

そんなの買うお金はないわ、という人が
本当にお金を持っていないかというと、
車や家を持っていたり
旅行に行ったりはしているわけで、
お金がない、という表現は
微妙な言い回しだなぁと感じます。
大抵の場合、
本当にないわけではないからです。

その人なりの気軽な買い物の金銭感覚の範疇には
その器の値段が当てはまらず、
何を置いても入手したい程でもなく、
「他の何かを犠牲にしてまでその金額を出す価値を認めない」
という時に
「お金がない」と表現する事が多くて、
要はその人にとって
ブラウス一枚を買うぐらいの感覚で
ちょっと素敵と思うような器を買えるならば
その人にとってのブラウスが量販店の3000円だろうと、
ハイブランドの30万円の物だろうと、
気軽にか買うことができる、というだけのことです。

わたしは、何を置いても欲しいというような物と
まだ出会ったことがありません。
コレクター魂も持ち合わせておらず、
ただ、想像するに
本当に欲しい物と出会って
それが到底手に入らない値段だとしたら
感歎の呻きは漏れても
言葉など出ないのではないかと思うのです。

なので、人によっては
たいした覚悟もなしに良い器を買うことも叶ってしまいます。
そういう意味では
幸せと不幸せは背合わせにあると思うのです。


物の値段にかかわらず、
ちょっと頑張って手に入れた物に対する思い入れは
必ず形になって現れます。
その結果、大切に使うと思います。
その大切に思う心から生まれることこそが
なんらかの成長を促したり
気付きを与えてくれます。

大好きな良い器であっても
何度やっても上手く入らない器、
その逆に思い通りに入る器など、さまざまです。

そのどちらであろうとも
自分の力量や
自分がどのような世界に属する人かがはっきりしたり、
自分の身の丈には合わないことがわかってしまったり、
真摯に対峙すればする程
ありありと見える瞬間が齎されるのです。

それを怖がって逃げていると
いろんなことがものすごく遠回りになります。
本当のことを知ることからしか
正しい学びは得られないのではないかと思うのです。

堅苦しく考える必要はないのですが、
そんなこんなを頭の端に置いて入れおいた方が
花を入れる際に
大きく間違わずに済むかな、
と思ったので
花のうつわに関しての覚書とします。

諸々を飲み込んで、修めて、
格の高いうつわにも
肩ひじ張らず
ふわりと入れられるようになると良いなぁと思います。


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花: 秋海棠 紫蘭 狗尾草 犬蓼
器: 須恵器 壷(奈良時代)


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