お花が上手になりたいですか?


どうやったらお花が上手になりますか、という問い程
返答に悩む質問は、ありません。

花を器に上手に入れたい。

どこかの流派に属して
型を学んで、
その型に沿って花をいれることで
上手に入る。
それで良いならば
洋でも和でも
型を自分で考え出したかと思う程
自分と型が一体化するまで
とことん学べば良いのだと思います。

しかし
型を持たず
自分の世界観を花に投影する
「なげいれ」の世界において、
花の上手を言葉で表すことは、
とてもとても難しいことです。

寺社仏閣をはじめとして
古民家や現代建築などを見て、
そこに身を置いてみて、
その場にふさわしい花を
古典の書物を紐解きつつ自分なりに考えるとか、
花鳥画や大和絵や山水画などを美術館で観て、
どんな物に自分は惹かれるのか確かめたり
花合わせや世界観を観察してみるとか、
野山に繰り出してみて
季節を追って草木の姿を観察するとか、
本や美術館で道具を観て
古道具屋や骨董屋などで
使ってみたい物との出会いを探す、とか
挙げてゆけばきりがありません。

問題は、
それらのことを通して
自分の中に
どのような世界観を持つに到るか、なのです。

そして、その世界観を
どうやって花に具現化したいのか。

その、具現化された花が
誰かの胸に何かしら響く時、
「あの人は花が上手い」と言われるに至る
ということなのだと思います。

この段階に至ってはじめて
花の留め方などの技術の習得も必要になります。

語学で言えば、
花留めはグラマー(文法)みたいなものです。
いれようとする花の世界観を実現させるために
自然界の骨法を理解し、
重力や張力などの
力学に適った器に花を留める手法を
身に付けねばならないからです。

一杯の花を入れるには、
実はそんなふうに
たくさんの要素が投影されています。

それ故、なげいれの花において
花をいれることだけが上手になることは
基本、在り得ないのではないかと思います。
花が上手になっていれば
花以外の何かも変わっているはずだからです。

型の習得で花が上手になるということは
それとは少し違って
ある意味職人芸に近いと思うので、
型や流派の約束事を修めることで
花だけ上手になることもあるのかもしれないな、と想像しています。


魯山人は書の名手でしたが、
その著書の中で
書を通じて人物評価をしていました。
どんなに社会的に偉いとされる人でも
字をみれば、なんぼの人かわかる、と。
書には、その人の性格からなにから
思うよりも沢山のことが表れているのだ、と。

花も同じなのだと思います。

上手い下手にかかわらず
いれた人の内面が如実に出てしまいます。

頑固な人か、それとも素直な人か。
神経質か大雑把か。
勇気のある人か、粗忽な人か、見栄っ張りな人か。
優しい人なのか、厳しい人なのか。
ちょっとのことは隠したり誤魔化したりしてしまえばいいや、と思うような人か。
精神の奥に闇を抱えている人か、育ちの良い健康な人か。
欲の深い人か、心が一つ所に留まり難い人か。

そんないろんなことが、おのずと表れるのではないでしょうか。

だから、
だれかに教えてもらって
その花をなおして頂く、ということは
とりもなおさず
考え方、生き方を直されるに等しいのではないかと思うのです。

葉っぱをごちゃごちゃ入れていることを指摘される人は
部屋の中にもごちゃごちゃな所があるだろうから整頓しましょう、に繋がるでしょうし、
根〆の花を手前に入れることで、奥を隠して恰好をつけているのがいけないと指摘される人は
隠すという精神がそもそも間違っていると叱咤されているようなものです。

指摘をどう受け止め
長年身に浸み付き
「悪いクセ」となっている思考方法や行動を
直してゆくにはどうすればよいのか。

惜しむらくは、
ほとんどの人が直す事なんて出来ないのではないかと思うのです。

何故ならば、
教えてくれた他者の言葉を受け入れるにしても
今までのやり方で一杯になっている脳みその中に
スペースを作るためには
既に身に着けている「何か」を捨てなくてはならなくて、
それは多くの人にとって
とても不安で勿体なくて怖いことだからです。

入れた花を褒められることを
自己肯定につなげたい人は、
「良いですよ」と褒められ
ほっと安心することが最大の目的となってしまうでしょうから、
その逆に
改善すべき点を指摘されることは
自分の感性や
人としての存在を否定されるように感じられて
精神的に受け入れがたいかもしれません。

同時に、
既に無意識の域に達している
根本的なことを直すためには
日常の動作の一挙一動を振り返らねばならない面倒さがあり、
なかなか成し得ません。

それゆえ、「自分らしさ」は保持したままで
直した方が良い癖を消すことも
他者の教えを自分の物とすることも
とても難しいのだと思います。

そのようなことを考えつつ、
頭で「わかる」と「わからない」ということの隔絶の感と共に
「わかる」と「できる」の間の壁の高さも
しみじみと身に染みて、
わたしもまた
同じところでグルグル回っているよなぁと反省する
桜咲く春の日でした。


20170407.jpg

花: 榛 牡丹 紫木蓮 木通
器: 古銅(江戸期)

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4 Comments

工作員A  

ちょうど 最近悩んでいることの ヒントを いただけたような気がします。

2017/04/13 (Thu) 20:55 | EDIT | REPLY |   

えるて  

工作員A さま

わぁ!それはヨカッタ ^_^

ちょっとでもお役に立てたなら、嬉しいです

2017/04/14 (Fri) 08:48 | EDIT | REPLY |   

タコノアシ  

「わかる」と「できる」の間

なかなか含蓄のある記事でした。
なるほど・・・。
「わかる」と「できる」の間の壁の高さ
絵を描くことにも通じるようです。

2017/04/16 (Sun) 23:08 | EDIT | REPLY |   

えるて  

タコノアシ さま

こんにちわ ^_^


わかったようで実のところ
わかっていない、
ということも
多いと思うのです。


そして、
やっとの思いで理解できたとしても
それを実行出来るかというと、
頭でわかることと
心の底で納得することは違うので
それ故難しい、とうこともありますよね。

あと、実行出来る程
深く理解できていない、とか。


うむぅ。
なんか渋ちんなお返事になってしまいました。
精進精進!


2017/04/17 (Mon) 01:23 | EDIT | REPLY |   

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