心眼で見る線 ①


器と枝をぼんやりみていて
ふと、思いました。

花を入れる際、
そこに実体はないのだけれど
眼には見えない線や交点などを
知らず知らずのうちに意識しているのです。

線が眼に見えない理由ですが、
それは器のエッジの描く曲線の延長線であったり
とある枝の先っぽの延長線と他の草の延長線の「交点」であったりと
つまり、想像上の線で
実体はないのです。

しかし、その想像は妄想ではなく、
実体のある器や植物の実線が
仮に自然に延長して伸びていたら…
という仮定のもとに
想像しているものなので、
その線や交点を意識するとしないとでは、
結果に大きな違いが出てくるように思います。
いや、意識するというよりも
そういう物の見方を身の内に取り込んでいる、
と言った方が近いかもしれません。

花を入れる際にだけ
このような見方や想像をするわけではなく、
美術館で名画などを見ていて
似たような感覚に陥ることがあります。

実際に線は描かれてはいないけれど
実は円の中に主要なものが納まっているとか、
描かれている人々の視線を追っていくと
とある額縁の外の一点に集まっているという事実、などです。

例えば、レオナルド・ダビンチの描いた
「岩窟の聖母」という絵があります。

岩窟の聖母 レオナルド・ダビンチ

岩窟の聖母(ルーブル版)

慈愛に満ちたマリアの目線と
しなやかに伸びた右手をたどってゆくと
左下の幼い洗礼者ヨハネに辿り着きます。
そのヨハネが前に差し出した
合掌した手の延長線上には
ヨハネの守護天使である大天使ウリエルがいます。
そしてその大天使の右人差し指は再びヨハネを指し示し
ヨハネの眼差しはキリストへ注がれています。
つまり、ヨハネの合掌は
キリストに向けられたものです。

マリアもキリストも
(そしてもう一枚のこの絵である
ロンドンのナショナルギャラリー版では、天使も)
ヨハネに目線を向けていることと、
ヨハネもキリストも赤ん坊の態であることから、
予備知識が何もないと
どちらがキリストなのか戸惑ってしまいます。

つまり、キリスト教にたいした知識もないまま
始めてこの絵を見た私は
視線を左に右にとぐるぐる回され、
考え混んでしまったのです。

実際、ヨーロッパではまだ
どちらがキリストなのか、
大天使はヨハネの守護天使なのか
それとも受胎告知を知らせたガブリエルなのか、と
論争されているそうです。

そしてこの4人は
マリアの頭を頂点とする三角形の中に配置されていて
目線がぐるぐるとまわされるのは
その三角形の主に下部で、
マリアのドレスの真っ黒く塗られた下部のあたりに
無限大マークのような
小宇宙が広がっているようにも思えて来ました。

大天使の、何か物を言いたげな目線は
この絵を見ている私達に注がれているという
意味深長ぶりです。

これ以外にも沢山
この絵の中には綿密な見えない線が隠れています。
太い線、細い線、そして線と線の交わり。
実態はないけれど
まるでこの絵の影のように
リズムを作り安定感を産んでいると思うのです。

それは、ある意味種明かしのようなものなので
絵を見る際に
意識する必要はないと思います。

ただ、これを
何かと何かの「関係性」の上に出来上がっている
線や交点だと考えた場合、
そこには
見る者に安心を感じさせたり、
劇的な意外性や
ドラマチックさを読み解かせたりといったような、
なんらかの効果が産まれているのは確かなことだと思うのです。

これを花を入れることに例えてみたいと思います。




20170301.jpg

花: 鶯神楽 猫柳 南天 烏豌豆
器: 須恵器

うぐいすかぐらは一本だけで、全てつながっています。

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