花の兄 ③


梅は、
梅干しや梅酒などが
伝統的な食品であることから、
もっとも日本的な植物の一つだと
お思いになる方も多いでしょう。

しかし、花の咲いた枝を切り
いざ器に入れようと
意識的に向かい合うと、
大陸の雰囲気の強い
「唐ぶる」花なのだなぁ、と感じます。

枝の角度にしても、
ぎゅうっと力が溜まる元枝に対して
小枝はさあっと力が逃がれ、
孫枝はくくっと持ち上がって生えている、
といった按配で、
ぐっと屈曲したところに緩急がついて
ある種の濃厚さが伴ないます。

苔付きのゴツゴツとした古木が
見どころであると共に、
枝や幹からすくっと伸びた
まっすぐで細くて若い
「すわえ」の枝が慈しまれるところにも
個性の在り方が
良く表れていると思います。

梅を描いた名画は
中国にも日本にも沢山ありますが、
イレギュラーな物として
ゴッホが歌川広重の
「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」の模写をしたものがあります。
梅の木など見たこともないだろう人が
浮世絵をお手本として描いたものとしては
「梅」という木の見どころが
良く表れていると思います。

ゴッホ 日本趣味:梅の花

実際、梅は日本原産の樹木ではありません。
遣唐使が中国より
梅を「薬」として伝えたことに始まるようです。

薬になる植物にはよくあるように
青梅の実には青酸カリが含まれ
生食するには危険です。
とは言っても、あの青酸っぱい実を
喜んで召し上がる方もいらっしゃらないでしょう。
加工をした果実からは毒性は消え
クエン酸や沢山の有機酸が含まれる
万能薬のような食品になります。
「塩梅」と言う言葉からも見て取れるように
塩と共に最古の調味料ともいわれています。


万葉集には120首近くの梅の歌が詠まれているそうで、
植物としては萩に次いで第2位だそうです。
日本に輸入されて来て
梅の大ブームが起こったのか
貴族の館の宴席などで読まれている歌が
ほとんどだそうです。

それ故か、
日本独自の国風文化が花開く平安時代になると、
回帰するかのごとく
歌に詠まれる回数は
桜が梅を逆転します。

通常花をいれる際は
一枚一枚の葉っぱまでもありありと見えるように、
諸々が重ならないように気を付けますが、
梅の場合は
枝が交錯するところにも美しさがあります。
しかしながら、
器の中で交わらせる際に
自然の理を無視するわけにはいかず、
荒ぶれても荒ぶれても
空気は静まっていなければ嘘になります。

一本でも何十本でも、
求められているのは同じく「澄んだ空気」で、
人の手や想いが入るということは
そこが一番遠い場所でもあるということでもあり
追えば逃げるのは
影や恋ばかりではないようです。



20170218_n2.jpg


花: 梅 蕗の薹
器: 常滑 経塚壺(平安)


関連記事
スポンサーサイト

2 Comments

gingokoro  

梅はせっかちなのかな?

梅をそんな風に観たことはなかったなぁー。ただ被写体として難しい花と云う印象です。ググッと寄って一輪を見つめるか、遠く引いて全体の輪郭ををぼんやりととらえるかしかないように思えるのです。桜のように主張しないのに、どこを見ていいのか視点が散漫になるのを覚えます。それはユリ科の花たちも同じで、はぐらかされた感じがするのです。本当のところが見えていないのでしょうが、見せまいとする意図のようなものを感じたりするのです。桜の咲いて散ることで完結という解かりやすさに比べて梅は実を結ぶことでしか完結が見えないようなところがある。個人的見解ですが。とはいうもののキク科の花々の平面的な構成には直ぐに退屈してしまうのですが。

2017/02/21 (Tue) 21:30 | EDIT | REPLY |   

えるて  

gingokoro さま


こんばんわ ^_^

梅がせっかちかどうかはわかりませんが、
梅には梅の、
梅雨前に実を実らせたいという都合があって
早春に花を咲かせるのでしょう。

それを人が、
手前勝手に思いを馳せ、
寒い中でけなげだと言ったり
励まされたような気持ちになったりするのだと思います。


そこに存在しているだけなんですよね、本当は。


そして、「被写体」とは
写真を撮る材料、ということなのだと思います。

花を入れる際、花も「花材」と呼ばれる際は
やはり材料なのです。

花をたとえにして恐縮ですが、
不思議なことに
花を「材料」として扱うことにより
何かを失うんですね。
同時に「材料」であることを
超えることがなくなってしまう。

フラワーアレンジメントのための花材で、
イケバナのための花材です。

花材としてしまった瞬間に、
それは自我(エゴイズム)の発露の先ともなってしまう。

これは背合わせになっていて
逃れることが難しいです。



奥深い森の中で
神々しいと思うような
草木に出会うことがあります。

そのような物を手折って持ち帰り
器に入れる際、
「材料」として扱うことはありません。
その草木の個性、神々しさを
損なうことなく
生かすことにのみ集中するからです。


その結果を
人の心を揺さぶる、という観点から
成功、失敗の二者で判断するとしたら
「材料」として扱わない方が
明らかに成功します。

不思議だなぁ、と思います。

そのような時ですら、
自我は、エゴは、
人の手が入ることで
消そうとしても
消しきることはできず、
糸一本分程は残ります。

でもそれで
結果が成功だとすれば、
自我や心のようなものは
ウルサイだけということが多いのではないか、と
考えてしまうこの頃です。

そのような観点から菊一つ見てみると
こんなフォーカスも発見できて
捨てたもんじゃないなぁと思います。


https://fr.pinterest.com/pin/427630927097455034/
https://jp.pinterest.com/pin/539587599082420240/

2017/02/23 (Thu) 01:07 | EDIT | REPLY |   

Leave a comment

←お返事は基本当ブログ内で致します。ご面倒をお掛けしますが再度お越し下さい