冬至 次候:麋角解(さわしかのつのおつる)


サワシカという鹿の名前を
初めて知りました。
それ故、日本のどこに生息しているのか知りたくて、
検索すれどもすれども
その片鱗が出てきません。
そもそも「麋」という漢字(「鹿」の下に「米」)が
サワシカと打っても変換されて出てこないのです。

それもそのはず。
大漢語林をひっくり返して
ようやくわかったことには、
この漢字には訓読みが存在しないのです。

大鹿とか馴鹿とか呼ばれるこの鹿は
北米大陸の北のほうではムースと呼ばれ
北欧ではエルクと呼ばれる、トナカイの一種です。
寒冷で水辺のある森を好むそうで、
木の枝が大好物なので
「ムース」という名前は
「小枝を食うもの」という意味の言葉に由来するそうです。
「オオシカ」と打つと、
変換候補の中にようやく
この漢字を見付けることができました。

日本にこの鹿はいません。

暦の作られた中国では
モンゴルの東側、
いわゆる旧満州のあたりの
北東部に生息しているようです。

日本の雄鹿の角が落ちるのは春先の三月頃。
ですので「落し角」は晩春の季語になっています。
繁殖期を迎えると
雄の気性が荒くなり、
闘ってお互いを傷つけあったり
人に危害を加えかねないので、
奈良公園の鹿は江戸時代頃から
十月に角切りを行うようになりました。
角が落ちるのは、繁殖期の終了の合図でもあります。

つまり、暦に反して
日本の鹿は、
この時期に角を落とすことはありません。

しかし「さわしか」などの大型の鹿は、
この時期に角が落ちるそうなのです。
日本よりも寒さの厳しい土地故の
自然の循環の形なのでしょう。

折しもクリスマスで世界中を飛び回ったトナカイさんが
まるでそのお役目を終えたおしるしに
ツノを脱ぐかのように思えて
人の背よりもはるかに大きくなるというその鹿が
可愛く思えた瞬間でした。

サワシカと言うと聞き慣れませんが、
ムースと言い換えると
真っ先に思い出すのが
星野道夫氏の文章です。


「旅をする木」 星野道夫著 「カリブーのスープ」より抜粋

ポイントホープの村で見たエスキモーのクジラ漁は、狩猟民に対する強烈な印象をぼくにうえつけた。
アザラシの皮で作ったウミアックを漕ぎ、氷の亀裂で出来たリードという氷海の中で、強大なクジラを追う。
それは言葉に言い尽くせない体験だった。
何よりもうたれたのは、彼らが殺すクジラに対する神聖な気持ちだった。
解体の前の祈り、そして最後に残された頭骨を海に返す儀式・・・・・・・・それはクジラ漁にとどまらず、カリブーやムースの狩猟でも、さまざまな形で人々の自然との関わりを垣間見ることができた。
ぼくは狩猟民の心とは一体何なのだろうかと、ずっと考え続けていた。
自然保護とか、動物愛護という言葉には何も魅かれたことはなかったが、狩猟民のもつ自然との関わりの中には、ひとつの大切な答えがあるような気がしていた。
それはもしかしたら、狩猟生活が引き受けなければならない偶然性と関係があるのかもしれない。
たとえば、クジラ漁は、リードがすべてである。
春、凍りついたベーリング海に、風と潮流の力により少しずつ亀裂が入ってゆく。
その氷に囲まれた海をリードと呼ぶのだが、クジラ漁は、そのリードが大き過ぎても小さ過ぎても成り立たない。
それどころか、氷は常に動き続け、目の前でリードそのものが消えてしまうことがある。
つまり、さまざまな自然条件がうまく重なって、初めてエスキモーのクジラ漁が可能になるのである。
それはおそらく、あらゆる狩猟に共通する宿命なのだろう。
しかし、狩猟生活が内包する偶然性が人間に培うある種の精神世界がある。
それは人々の生かされているという想いである。
クジラにモリを放つときも、森の中でムースに出合ったときも、心の奥底でそんなふうに思えるのではないだろうか。
私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。
生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。
近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。
約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。
そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。
動物たちに対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきて、ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。
つまり、この世の掟であるその無言の悲しみに、もし私たちが耳をすますことができなければ、たとえ一生野山を歩きまわろうとも、机の上で考え続けても、人間と自然との関わりを本当に理解することはできないのではないだろうか。
人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分の中にとり入れることで、より深く大地と連なることができる。
そしてその行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的に離れてゆくのかもしれない。



今、私達はたくさんの花を
ありとあらゆるところで見ることができます。

園芸店では、
花壇に気軽に植えられるポット苗が並べられていて、
花屋の冷蔵ケースの中では、
ブーケやアレンジにされることを待つ花々が
所狭しと入れられています。

皆、それぞれに綺麗です。

それでも、何故私は
野や山の自然の中で咲く山野草に
強く心を惹かれ、
型を持たないことを良しとし、
切ることへの胸の痛みと申し訳なさと共に
草や木にハサミを入れ、
自分の命を繋いでゆくことに
直接は関係のない
花の命を奪って
楽しみとして
器に入れることをするのか。

そのことにはっきりとした答えなど
持ってはいません。

けれど、それらのことを通じて
何かを模索をしている、
そのことへの
ひとつの答えが
この星野道夫氏の文章にあるように感じるのです。


20161226.jpg

花: ツツジ末枯 野茨 白ヤブ椿
器: 篠岡 四耳壺(平安)


ムースのように大きなつつじの株から
末枯れ枝を切り出し
鹿の角に見立ててみました。

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