知る嬉しさ わかる悲しさ ②


30代の頃は
毎週のように美術館に通い、
いろんな物を見ました。
でも青磁に関しては
相変わらずわからなくて、
闇夜の黒塀に梯子をかけて昇っているごとしで
進めども進めども
目が後退しているのか進んでいるのかも見当がつかない、と
ずっと思っていました。

どうわからなかったのか具体的にいうと、
600年前のオリーブグリーンの
素晴らしいといわれる青磁色が
くすんで汚い色に見えたり。
1000年前の大皿と
フグ刺しの乗っている数千円の青磁の刺身皿との違いとに
違いがあることはわかっても
そこに感動はなかったり。

そんなふうに
「ほんと青磁って何が良いのだか…」と思っていた私でしたが、
ある日突然、
展覧会の入り口から遠くに見える
ショーケースの中の青磁を一瞥して
「あ、これは良い物だ」と、確信が持てました。
近寄ってみると
「国宝 青磁鳳凰耳花生〈銘万声〉」 でした。

その時の感覚はなんとも不思議で、
闇夜が開けて朝が来たら
自分は梯子の上に昇っていて
塀の向こうまで見えて、
こんなお庭が広がっているなんて予想もしなかった…
そんな感じでした。
言い換えれば、
知らない間に自分の中に
何かしら「定規」のようなものが出来上がっていたように感じました。
一旦定規が出来上がると
今まで冴えないとばかり思っていたモノ達の「良さ」が
急にふわっと浮かび上がって見えて来ます。

私は、ひたすら見ていただけで
(それも見るたびに汚いだの野暮ったいだの思っていて)
特に知識を得ようと勉強をしたわけではありませんでした。
ただ、時を経て
目の奥に積み重なってゆく何かが
確かにあったことを自覚して、
それは、センスを磨くというよりも
職人さんの修行ってこんなふうなのかもしれない、
と思ったのです。

誰でもきっと、
目先の数字に惑わされず
丁寧に飽きずに行えば
時間は掛かっても
ある一定のレベルにまでは到達できる。
それが、生来のセンスとか器用さに由来せずとも到達できる
「職人になる」ということだと思っています。

美しい物を見る目を訓練することも
職人さんの修行と
そんなに変わらないのではないでしょうか。

その先、天才職人になるか
人間国宝の域に至れるか、は
産まれ持った天賦もあるでしょう。

そういう一握りの人でなくとも、
ほとんどの人は誰でも
「好きだ」と思って集中するか
「これしかない」と思ってこつこつ積み重ねることで
一定の所には到達できるのだと思うのです。
階段を上るというよりは
可能性が広がる感じです。

今は他の物にひけを取らないほど青磁が大好きで、
ロンドンに行けば大英博物館に行って
デイヴィッドコレクションの部屋に張り付き、
台北の故宮博物館に行けば
汝窯のショーケースの前に張り付きます。
大阪の東洋陶磁美術館は、
何時間いても飽きない聖地です。
東博も、東洋館や常設展が楽しみです。

美術館に行くときは単眼鏡を持って行って
器のエッジなどを拡大して楽しんでいます。
良い品であればある程
拡大して見ても崩れない、
アップにした時の美しさが現れます。
喉の奥が渇くような高揚感を感じる時、
良い物の「良さ」がわかる嬉しさを
しみじみと感じます。

けれど、どれも
決して我が家にお嫁に来ることはない品です。
私は物欲が強い方ではないので
コレクター的執着はなく
所有欲も少ないのですが、
それでも
この花瓶に花を入れてみたいと思ったとしたら
それは一生叶わない夢で、
この壺を横に転がした形で眺めていたいと思っても
それも叶わない夢です。

そして、良さがわかるに至るということは
その少し前までは良いと思っていた何かが
急につまらなくなってしまったり、
粗が見えてしまったり、ということと
背合わせでもあります。

そうなると、
わかることや知ることは
はたして万人にとって
幸せと言えるのだろうか?とも思うのです。

今日も、電車の前の席に座っているおばさま達の話題は
財力の不足による「買えない」お話でした。


自分が何を幸せと思うか。

自分の価値観はどこに置いて居るのか。


そんなことを繰り返し考えています。



20161007.jpg

花: 富士アザミ ギボウシ アザミ 
器: 松嶋弘作 備前壺 






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4 Comments

さと由季  

おはようございます

知れば 知るほど・・深い 納得だったり、ため息と共にの あきらめだったり・・ それでも 今ある環境 と 限られた時間の中でも それなりにできる事を やってみましょう…!と 背中を押していただいたように(勝手ではありますが) 感じました。

片隅に おいやったままの 名もない壺の事、急に思い出しました。

ありがとうございます。

2016/10/09 (Sun) 08:45 | EDIT | REPLY |   

CyberBizKiz  

もし、この世のモノが全て無料になったら・・・

いつも楽しく勉強させて頂いてます。「目を養う」ってことですね。
ワタシも小さな頃から親に「意味が分からなくてよいから真剣に観るように」と
博物館やら美術館に連れて行かされましたが、中学生ごろから意味が理解でき始め、
それが今では我が子に引き継がれています。

欲は捨てるが1番「幸せ」の近道です。悲しむ必要など皆無です。
『もしこの世のモノが全て無料になったら、最終的に人は何に贅沢を見い出すのだろう。』・・・
そう考えると大事なものがぼんやりながらでも見えてくる気がすると思いませんか?!

2016/10/09 (Sun) 12:59 | EDIT | REPLY |   

えるて  

さと由季 さま

こんにちわ ^_^

そうなんですよね。

自分に出来ないこと、
持っていない能力を
嘆いても羨んでも
な~んにも良いことはなくて、
ただ落ち込んでしまうだけでは
浮かばれないんです。

人と比べないで
自分の価値観を大事にして
毎日を過ごす以外
方法はないのよね、と思っています。

でも、そんなこと思ってても
現実という大波を浴びるたびに
しょっちゅう
へこたれてますけれど(笑)

へこたれた後、
またむっくりと起き上がる他に
方法はないんだなぁと
感じています。

2016/10/10 (Mon) 12:57 | EDIT | REPLY |   

えるて  

CyberBizKiz  さま

こんにちわ ^_^


大好きでもない物を真剣に見る、という姿勢は
大人でもなかなか
貫きがたいものがあります。
親子で美術館にお出かけなんて、素敵ですね。

たとえば青磁一つとってみても
一生興味が持てないままの人も
おそらく多くいらっしゃって、
現に私の友人で
沢山の物を見ている子は
「信楽の茶碗『柴田』は
盗って帰りたいと思う程好きだけど、
中国の青磁はねぇ…」
などという人もいます。

それでも丁寧に見ていれば
いつか「わぁ (^O^)」と思う日が来るかもしれない。

来るかもしれないし、
来ないかもしれないね、なんて話しつつ
約束された確かなことなんて
何もない中、
今日も「わからないな」と思う何かを
否定することなく見たいと思っています。


そして「欲を捨てる」。

そうですね…
でも、言うは易しで
なかなかその境地に至れる人は
いないのだと思います。

自分では、物欲は少ない方だと思っているのですが
それでもないわけではない。

欲がまったくない程に
悟ってしまったら
生きることは
どんなように目に映るのでしょうか。

でも、CyberBizKizさんがおっしゃりたいのは
そんなことではないですよね。

本当に大事なものとして
心が欲するものは。

わたしは、心の平安だったりするんじゃないかと思います。

2016/10/10 (Mon) 13:21 | EDIT | REPLY |   

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