秋分 初候:雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)


10年ほど前、
出光美術館で
3つの風神雷神図を並べた展覧会が
開催された際のことを思い出しました。

おおもとの俵屋宗達。
複写した尾形光琳。
光琳の物を模写した酒井抱一。

光琳も抱一も論ずるまでもなく
素晴らしい画家ですが、
絵を描く能力は置いておいて、
その絵が
「その人の身の内から出た
オリジナルであるかどうか」
ということがもたらす「何某か」に
深く感じ入りました。

それはもっとも「目」に現れていたように
記憶しています。

宗達の物は黒目が小さく、
視線には確かな方向がありながら
どこを見ているのか
どこも見ていないのかわからないような、
言いかえるとしたら
心があってなさそうな、
人ではあり得ない神様の目です。

光琳の絵は
風神と雷神の視線が交錯しているところなどに
作為と工夫があり、
その結果神聖がかなり弱まって感じられ、
抱一の絵はひょうきんささえ漂わせていて、
もはや人のような表情でした。

デザインとして秀逸だからこそ
光琳も抱一も写しを描いたのでしょうが、
多くの人が言うように
宗達のオリジナルは
段違いに印象深いのです。
醸し出す雰囲気が全く違います。
風神も雷神も
あぁ神様なのだ、と思います。
宗達は「神様キャラ」ではなく、
「神」を描いたのです。

私は、宗達は
水墨の「蓮地水禽図」が一番好きなのですが、
この3点の屏風を思い出すにつけ
考えてしまいました。

型の存在です。

なになに流という流派に属していると
必ずその流派のデザインたる「型」が存在します。
いにしえの天才達が
美の黄金律を見付け、「型」を作ったことで
その流派は形作られます。

能などは、その型から大きく踏み外すことはありません。
基本、型を飲み込み
自分と型と役処が一体化したかと思う程になって
はじめて
個性のオーラのようなものが
そこはかとなく付いて回るのではないかと
名人の芸を見ていて思います。

型という制限があることで
逆に浮かび上がる「何某か」があります。
謡によってドラマは語られ、
能楽師の
実際の人のありさまとは真反対の
鍛錬された少ない動きに
観能する人々の記憶の中に眠る経験はつながり、
想像力をずるずるっと引きずり出して
心を打ちます。
それゆえ、
いわば抽象と凝縮の極みのような能の
演能者側に
「自分は本当はこう演技したい」などという思いがあるのならば
そういう思いがなくなる程にまで
型を咀嚼し尽くし、型を超えた所にいなければ
思いとか、心とかいうものは
ただ雑音のように煩くて
見ていてかなわないのではないかと思うのです。
オリジナリティは
具象にのみ現れるわけではないのだと
教えられる思いがします。


では花を入れることはどうかというと、
身体表現である能などと比べると
入れ終わった花は
身から離れています。

それゆえ花を入れる際に
「型」を使うとなると、
自然の風景を模した日本の花の「型」は、
まるで自分が
その型を生み出した人であるが如きまで至らないと、
他人の美の黄金律を借用していることが
表に現れてしまい、
花と型との剥離が生じます。
決まりきったデザインの中に花が収まっているだけで
何某かが置き去りになります。
何しろ、型を産み出したのは天才です。
その強烈な黄金律が身に刻み込まれたら
そこから自由になることは
至難の業なのではないかと思います。

それゆえ
絵にせよ、花にせよ、
形やデザインだけのことならまだしも、
模写や型を用いる難しさは
精神の置き所ではないかと
僭越ながら、思う次第です。

光琳は晩年に紅白梅図屏風を描きあげ、
抱一は夏秋草図屏風を描きあげました。

吸収し、飲みつくした後の
比類ないオリジナルです。


20160922.jpg



花: 彼岸花 山芋の蔓
器: 常滑 経塚壺 (平安時代)





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2 Comments

☆バーソ☆  

3つの風神雷神図についての文章。
見事で、読み惚れました。
小さな黒目ひとつにそんな世界が見えるのですね。
花のことは、芸術のことも、よくわかりませんが、
型を極め、型から外れた美でないと、
人に感動を与えるまではいかないのでしょう。
“型”というものが少しわかるような気がしました。
そういうことが見える人の感性は羨ましいです。

2016/09/24 (Sat) 10:18 | EDIT | REPLY |   

えるて  

☆バーソ☆  さま ^_^

バーソさま、いつもありがとうございます m(__)m

わたくしは
芸術の専門家でもプロでもないのですけれど、
体験として感じていることがあります。

わからないなりにも
丁寧に丁寧に見て、行っていれば
日々積み重なってゆく何かが
時を経て
ある日なんらかの形で顔を出す、
ということです。

顔の出し方は人それぞれだろうと思うものの、
でもそれが
「感性を鍛える」という方向に向いた時、
何かが見えたり
広がった嬉しさが生じます。

でもそれと背合わせのように、
少し前までは良いと思っていた何かに
急に稚劣さを感じたり
嫌になったり、
というような
寂しさが湧く可能性も潜んでいると思います。

センシティブな人の感性に
驚嘆を感じることもありますが、
その感じ入りやすさのために
生きにくいこともあるのだろうなぁと
おもうことと似ています。


何を幸せと思うか。

人の芝生が青く見えていないか。

落ち込むたびに
繰り返し考えています。


2016/09/25 (Sun) 00:48 | EDIT | REPLY |   

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